碧潭看月

徒然なる言葉の羅列が意味を成すように見える、兼好法師も読んで呆れる駄文の数々。

11/30の勉強会のまとめ(数式の試しがき)

Synthetic Difference in Differences (SDID)

内輪の勉強会で Arkhangelsky et al. (2021, AER) を眺めたので、はてなMarkdown記法に慣れるのも兼ねてブログを書こうと思った。

さて、簡単のためATT (QoI), intercept, fixed effectsをまとめて 
    \theta = (\tau, \mu, \alpha, \beta)
とおくと、SDID推定量は次の式で求められる。

 
\newcommand{\argmin}{\mathop{\rm argmin}\limits}

\begin{align*}
    \hat{\theta} = \argmin_{\theta} \sum_{t = 1}^{T} \sum_{i = 1}^{N} [Y_{it} - ( \mu + \alpha_{i} + \beta_{t} + W_{it} \tau ) ]^{2} \hat{\omega}_{i} \hat{\lambda}_{t}
\end{align*}

面倒なのでnotationの詳細は省く。ここで、 
    (\omega, \lambda)
とかいう重みの推定量がplug-inされているが、これらは


\newcommand{\argmin}{\mathop{\rm argmin}\limits}

\begin{align*}
    (\hat{\omega}_{0}, \hat{\omega}) 
&= \argmin_{(\omega_{0}, \omega)} \sum_{t = 1}^{T_{\text{pre}}} \left(
\omega_{0} + \sum_{i = 1}^{N_{\text{co}}} \omega_{i} Y_{it} - \frac{1}{N_{\text{tr}}}\sum_{i = N_{\text{co}} + 1}^{N} Y_{it} 
\right)^{2} 
+ \zeta^{2} T_{\text{pre}} \| \omega \|_{2}^{2}, \\
     (\hat{\lambda}_{0}, \hat{\lambda}) 
&= \argmin_{(\lambda_{0}, \lambda)} \sum_{i = 1}^{N_{\text{co}}} \left(
\lambda_{0} + \sum_{t = 1}^{T_{\text{pre}}} \lambda_{t} Y_{it} - \frac{1}{T_{\text{post}}} \sum_{t = T_{\text{pre}} + 1}^{T} Y_{it}
\right)^{2}
\end{align*}

のように推定される。意味としては、処置前の期間における処置群と統制群を(平均的に)balancingさせるのが 
\omega
、統制群における処置前と処置後をbalancingさせるのが 
\lambda
ってことだと思われる。ところで、 
\omega
の推定式にはL2正則化パラメータの 
\zeta
がくっついているが、元論文にはきちんと決め方が書いてあるものの、tex打ちが面倒なので書かない。どうやら 
\zeta
がobserved outcomeの時間による差分に依存する関数というのがポイントらしい。

実践しようと思ったら、著者たちがRで実装したsynthdidと、それを謎の日本人がPythonに移植したpysynthdidを利用できる。スクラッチでもできそうな気がするので暇なら書いてみたい。

回顧——試し書きを兼ねて。

ふと顧みたくなった。

人間というのは、異常を楽しめる生き物だと思う。その点で、感染症の流行は人々を高揚させる効果があった。しかし、昂りに酔いしれていたのは刹那とも言える短さで、すぐに抑鬱に頭を悩ませる羽目になった。

世界が変わる前、大学の一年次は散々な有様だった。希望を打ち砕かれ、「無」がその範囲を拡大した時期だった。なぜ大学に通っているのか、なぜ勉強しているのか、未来には何があるのか、あるいは未来があるのか——これらの問いは考えるだけ無駄で、世の大学生は棚にあげて生きているのだけれども、結局、私は無視できるほど忙しくなかったということなのかもしれない。だからといって、今更あの虚無感をうち棄てられるほど器用には出来ていない。

思うに、「虚無」と「絶望」は異なるもので、その隔たりは限りない。「絶望」という言葉にある何か感情的なものが、「虚無」には全くない。「絶望」が深さだとすれば、「虚無」は広がりだ。しかも、空虚な心は他の感情や感覚を併呑して、その領域に組み込んでいく。取り除こうとしなければ、不毛地帯だけが残る。この論理からいえば、一昨年の暮れには私の心は塔克拉瑪干沙漠くらい乾燥していて、清泉を求めて蜃気楼を追っていたのだろう。

だから、緊急事態宣言からの自粛という一連の動きは、少なくとも私にとっては僥倖だった。さっき書いた昂揚もあったし、何より「大学で講義を受けなくていい」というのが大きかった。「普通の」大学生——私には害毒にみえた——と同化せず、自分の生き方を追求する喜び。人間関係とか、時間感覚とか、くだらない社会的制約をかなぐり捨てて、自由に大学生という身分を演じることで、「私の」可能性が拓けると思った。

実を言うと、皐月の中頃までのことは何も覚えていない。自分のSNSの投稿を再見して、過去の行動を推しはかることが精一杯だ。虚無に苛まれていたこともそうだし、その後の衝撃が大きかったこともある。これと正反対に、神無月の少し前くらいから記憶は鮮明になる。金銭的にも、心理的にも、いくぶんかの余裕が出来たからだと思う。オンライン講義を逆手にとって旅行したりした。 この辺りで、虚無感は消えたわけでは無いけれど、その拡大を中断したのだろうと思う。

大学のゼミがはじまって真に意識の高い人々と出会ったのも、まさに秋口だった。まあ高尚な人間だと自認していたのだけれども、それがどうも正しくないとわかったのは間違いなくゼミのおかげだ。簡単にいうと、私は「絶望」した。先天的才能と後天的能力の両方に恵まれる人間はいくらでも存在する。天は二物も三物も、好きなだけばらまいているというのが実情なのだ。「能力の差は努力で埋められる」なんて言葉は欺瞞だ。人間としての出発点からして違うから、同じだけ努力しても意味がない。しかも、成功体験が推進力となって、結局のところ能力がある人間だけが効率的に成長していく。いや、こんな使い古された真理は昔から経験していたのだが、再確認したくはなかった。

かくして、虚無と絶望を両方抱えた異常大学生が誕生した。冒頭のとおり人間は異常を楽しめるから、たぶん私もこの異常に面白さを見出している。こんな文章を書いていること自体その証左だろう。私のような人間は、現実と理想の狭間に架かる細い鋼線の上で、気が狂うまで小踊りし続けるのかもしれない。

 

(おわり)

 

 

 

 

私的欧州周遊紀行 其一

 十日ばかりフランス・ベルギー・イギリスを見物してきたので、その間の出来事を思い出しつつ綴ろうと思う。

 仏語にはアクサンがあるが、キーボードの仕様上省略している。ご勘弁願いたい。

 

 

 八月五日、羽田よりパリへ発つ。欧州旅行は初めてであり、心躍らせながら搭乗する。航空会社はエールフランス航空。機内サービスは至って平凡か。座席後方のギャレーに軽食を用意する気前の良さによろこぶ。しかし、あまりの飛行時間の長さに気が滅入る。同日夜、シャルル・ドゴール空港に着く。二十時でも明るいことに驚く。到着ゲートからバゲージ・クレームまで電車で向かう。空港の広さに更に驚く。荷物を受け取ったあと、RER B線でパリ市内へ。数十分後、パリ北駅(Gare du Nord)に到着。ホステルまで徒歩で向かおうとした矢先、謎の黒人に声をかけられる。なんとか逃げおおせるも、夜間のターミナル駅の治安の悪さを実感する。大通りを恐る恐る早足で歩き、ホステルに着く。ジネレータ・パリという名。内部の雰囲気は良い。ここで初めてインターネット接続を得て、治安の悪い区に宿をとってしまったことを知る。絶望と疲れを同時に感じ、就寝。

 

 八月六日、十時ごろホステルを出る。最寄りのルイ・ブラン駅(Louis Blanc)より、地下鉄七号線でパリ中心地へ。ルーヴル美術館を見学しようと、パレ・ロワイヤル/ルーヴル美術館駅(Palais Royal/Musee du Louvre)で下車する。美術館は休館。写真だけは撮っておく。気を取り直してチュイルリー庭園へ。あまり見るものはない。さらに歩くと、オベリスクが見えてきた。コンコルド広場である。かのマリー・アントワネットが処刑された広場であるが、面影は全くない。コンコルゲンの歌を口ずさむ。コンコルド広場にいる人間なので、略してコンコルゲン。オベリスクは観光客の撮影スポットと化していた。あまり興味がわかなかったので、そのままシャンゼリゼ通りへ。高級ブランドが立ち並ぶ。煌びやかな通りである。貧乏人には用がないとみて、通りのマクドナルドに入る。初めてタッチパネル式の注文を体験する。きわめて良いアイデアだと思う。しかし、ビッグマックセットのあまりの高さに驚く。確か千円を越していた。これまで行ったあらゆるマクドナルドの中で、シャンゼリゼ通りが一番高かった。場所代だと諦めながら、一休み。

 しっかり休んだあと、凱旋門へ。観光客でごった返していた。遠目から眺めると、人々が門の屋上で群れている。どうも上れるようだ。金の無駄なので写真だけ撮って去った。凱旋門周辺を歩く。今度はエリゼ宮へ。途中、道に迷う。心優しい警官が道を教えてくれた。宮殿は警備が厳しい。小銃で武装した警官が何名もいた。鉄柵とパトカーでバリケードが作られている。やはりデモの影響なのだろうか。いや、元からだろう。そんな思索を巡らせる。宮殿前の通りを散策する。日本人が考える欧州らしさが詰まっているような通りだった。位置関係としては、日本で言えば永田町だろうか。ふと、母校を思い出す。

 散策ついでに手に入れておきたいものがあった。SIMカード。空港で買いそびれたまま機会を逃していた。検索すると、フランスにはFree Mobileという格安SIMがあるという。EU圏内ではローミングしても無料である。だから、安くて通信容量があればあるほど良い。Free Mobileは仏国内100GBかつEU圏内25GBで四千円以下。貧乏旅行者には最適であった。本店へ行き、自動発券機ですぐに入手。

 用が済んだあと、シテ島へ向かう。ジプシーの集団に襲撃されたのはこの間のこと。まず、コンコルド広場前で襲われる。インド系の顔立ちをした少女たちが、何やら紙を持って辺りを眺めている。観光客には見えない。避けて進もうとする。こちらへ向かってくる。どうも募金活動をしているらしい。日本でも東京駅前でよく見るような、怪しい募金活動だろうか。突っ切ろうとする。ところが腕を掴まれ、紙で顔を覆われ、一瞬にしてもみくちゃになる。このとき、襲われていることを自覚した。なんとか振り切る。ふと見ると、鞄のファスナーが開けられているではないか。不味い、何か取られたか。幸い何も盗られていなかった。彼らは渋い顔をしてなにかほざいている。しかし、そんなことはどうでもよかった。私はいやでも現実を知らされたのである。パリとはこういう街であると。衆人環視の中でもジプシーは襲ってくる。彼らが排斥される理由がわかった。これははっきり言って人種差別だろう。でも、モラルは体験を覆せない。憤りにまみれつつセーヌ河畔を歩く。十五分ほど歩くと、また紙を携えたインド系を目にする。手口はわかっている。今度は鞄をしっかり抱えた。そして物言わず走り去る。それでも腕を掴もうとする彼らの貪欲さには呆れてしまった。それが彼らの「伝統」なのだろう。思索を巡らせる。なんとかシテ島に着く。炎上したノートルダム寺院をみる。雨が降ってきた。宿に傘を忘れた。また襲われる恐怖もあり、昼間ながら宿へ帰った。宿ではだらけて過ごす。シャワーを浴び、就寝。

 

らうにんざうし

 春は絶望の季節だ。何かを始めなければいけない者がいる。彼らはその責務と見通せない未来に絶望する。浪人もその一つだ。

 

 しかし浪人よ、君たちの未来は虚無ではない。一年間のモラトリアムを楽しめ。四六時中勉強しなくてもいい。正しく遊べ。腐るな。勉強は適度にやればいい。

 

 そもそも、大学なんて適当なところでいいじゃないか。進学校出身だろうと早慶の一つでも入れればもうけもんだろう。皆目標が高すぎるのだ。周りがいい大学に入学していようと、君の能力は全く担保されていない。他人なんてどうでもいい。本当に面白そうなところを選べよ。

 

 ただ、勉強する時はしっかりやるべきだ。そうでないと本当にどこも受からない。個人的には模試の前に一気に勉強するのがおすすめだ。普段から勉強はしなくていい。それができれば現役で受かっている。

 

 最小限の努力で結果を出すほど気持ちいいことはない。だから、頑張ろうと思うな。一年間、マイペースに適当に、好きなようにやればいい。もちろん勉強したいならすればいい。でも、勉強できないと思ったら、無理してやる必要はない。

 

 最後に、自己否定と自己肯定におぼれるな。理性的であれ。心を犠牲にして結果は得られない。自己否定しすぎると本番が怖くなる。自己肯定しすぎると自分の能力を見誤る。何もいい結果を生まない。

 

以上、深夜のどうでもいい語り。

耳かき

 世の中には様々な耳かきがあります。竹製で梵天がついたスタンダードなものから、金属製でスクリュー式の掻き出しにこだわったものまで。今回は、耳かき大好きなぼくが、お店でよく見かける耳かきについて書きます。

 

①これぞ原点、竹製耳かきwith梵天

 

 耳かきにこだわりがない人は、まずこのタイプを使います。薬局や雑貨店に行けばまずこれが売っている、誰がみても耳かきだとわかるスタンダードな耳かき。だからと言って侮ってはいけません。これこそ日本人が長い時間をかけて編み出してきた究極系なのです。しなやかな竹が耳の気持ち良いところを優しく撫でると、誰もが耳かきの本質がそこにあることに気づいてしまう。次第に耳垢掃除という目的を忘れ、エクスタシーを感じるために耳かきを繰り返す。まるで麻薬。そして極め付けの梵天は、全人類を極楽浄土へと導くのです。悟り。浄土信仰は耳かきから生まれたに違いありません。

 

 さて、このスタンダード耳かきですが、同じように見えても少しずつ違います。まず、匙の部分は大きくても小さくてもいけません。あまりに大きいと耳に圧迫感を与えるので気持ち良くありませんし、あまりに小さいと鼓膜に達して怪我をする危険があります。耳穴の大きさは人によって違うので一概には言えませんが、小さい薬匙ほどの大きさが適すると思います。次に、柄の部分はしなりの効いたものが良いです。上に書いた通り、これはタッチが優しく快適だからです。匙タイプでも金属製のものが市販されていますが、触れ心地が悪い上に手の温もりが伝わって生温く感じるので、あまりオススメしません。ぶっちゃけ、金属製匙タイプを使っている人はマゾだと思っています。

 

②ごりごり削る!金属スクリュー耳かき

 

 ぼくは耳が壊れるほど削るのが好きだ、という変態耳かきストのための製品です。実用面では一気に全方向の耳垢を掻き出せるというのが考えられますが、穴を塞ぐ形になって耳垢を奥に押し込んでしまう危険があるので、耳穴の壁側に張り付いた垢をこそぎとるのに使うのが良いでしょう。でもそういう時はふつう綿棒を使うので、こだわりがなければ買う意味ありません。やっぱり変態趣味ですね。耳が削られるような、結構えげつない音を楽しみたいという紳士淑女の皆さんは、一本試しに買ってみてもいいかもしれません。なんか興奮するので。

 

 さて、この耳かきのポイントはヘッドが大きすぎるものを買わないことです。耳かきは気持ちいいですが、耳垢を掻き出すという目的を忘れすぎると、耳を傷つけて取り返しがつかなくなります。耳垢を奥に押し込まず、耳を傷つけないよう、必ず自分の耳にあったものを選んでください。と言っても市販のものは見たところ大丈夫そうなので、輸入物のハード系耳かきでも買わない限りはまず心配ないとは思います。

 

 

 なんか少ないですが、以上が今の所使ったことのある耳かきです。これからも蒐集していくつもりなので、適宜この記事に追加していきたいと考えています。また、「私はこういう耳かきが好きだ!」という耳かきフェチの皆さんの体験談・意見等ありましたら、参考にさせて頂きます。皆さん、いい耳かきライフを!

配信関連のお話。

 浪人が終わり大学が決まったので、最近やっとPCを手に入れました。MacBookなのでWindowsより制約が強いのが難点です。

 さて、最近ぼくがハマっているところのゲーム配信について、少し詳しく書きたいと思います。と言っても、ぼく自身ネットや配信の先輩たる友人から聞いた情報をもとにソフトを導入したので、調べれば出てくるとは思います。

<映像>

 まず、配信ソフトはOBS for Macを使っています。多分配信ソフトだとこれが一番有名なんだろうと思います。聞いた話によると、Windows版のOBSはゲームキャプチャ機能があるらしいんですが、Mac版にはこれがないので少し不便です。この問題は、ウィンドウキャプチャを用いることで解決しています。PCゲーム画面をフルスクリーンにすれば実質ゲームキャプチャと変わりません。

 次に、スマートフォンゲームの配信については、ぼくがiPhoneを使っているのもあって、Macに標準搭載されているQuicktime PlayerでiPhoneの画面を投影して、それをOBSの映像キャプチャデバイスから映像を取得する機能を用いて配信画面に出しています。はじめはウィンドウキャプチャを使っていたんですが、これだと映像のfpsが低下し、とても見にくくなる上、クオリティの割にCPUにかかる負荷が大きくなります。

 そして画質ですが、ツイキャスの超高画質配信を使えばフルHDかつ60fpsまではいけます。ノベルゲーでもない限りぬるぬる動く方がいいに決まっているのでこれを使いましょう。ビットレート(映像)は、OBS側の数値に換算して5000が推奨されています。ちなみに、OBSの設定をいじれば4K画質で映像を取得できますが、配信サイト側の問題で意味がないことが多いです。というか、フルHDで全く問題ありません。綺麗です。

 

<音声>

 Macで配信する際に障害になるのはここです。Macは音声を個別に認識しているわけではないのでミキサーを使います。ぼくが導入しているソフトはsoundflowerとLadioCastです。これらもMac配信界隈だと有名な組み合わせなので、調べればたくさん情報が得られます。

 まずsoundflowerについてですが、これは一つの音声入力から複数の出力をするために使います。例えば、ゲーム配信をする際には、ゲームの音声という一つの入力から、OBSと自分のヘッドフォンという二つの出力をしなければいけません。Mac単体だとこれができないので、一度Macの音声をsoundflowerに出力する必要があるというわけです。この出力設定は、Macの「システム管理設定」の「サウンド」から簡単にできます。このとき、「soundflower(2ch)」を使いましょう。

 次に、出力についてです。LadioCastはミキサーですから、soundflowerから音声を取得して自分のPCなりヘッドフォンなりから出力できます。それ以外の用途に使ったことないです。一つ注意点としては、配信音声はOBSの「設定」から「音声」を開いて、「デスクトップ音声デバイス」を「soundflower(2ch)」にすることで取得しなければいけません。この辺はソフトをいじっていれば自ずと見えてくるところですから、そこまで詳らかにすることでもないでしょう。

 

 以上が映像と音声の配信に関する情報です。これくらい知っていれば、すぐに配信ができると思います。配信は怖いところもありますが、楽しいところもたくさんあります。皆さんも楽しんでみたらいかがですか。

「星の鼓動」とはなにか①

これは以前他所でまとめたものを改訂したものである。

 

<概要>

 「STAR BEAT!~ホシノコドウ~」の歌詞によれば、「星の鼓動」から生ずる音は以下の3条件を満たす。いわく、

 

1.常に聞こえる音

2.小さい音

3.星が巡り届ける音

 

である。戸山香澄の発言の文学性から、これらを特殊で固有の表現と捉えて考察し、「星の鼓動」の正体は戸山香澄の心臓の鼓動であると結論づけた。

 

<考察>

 戸山香澄は幼少時に初めて「星の鼓動」を感じたという描写がある。このとき彼女は満天の星空を仰ぎ見て、そして「星の鼓動」を聴いた。花咲女子学園高校周辺のモデル(いわゆる聖地)を参考とすれば彼女は都市中心部に居住しており、意識的に満天の星空を眺めるのは初めてだったと考えられる。これは「星の鼓動」が彼女の中に強く印象付けられていることで示せるだろう。我々が確認できない形で「星の鼓動」を初めて聴くための条件が限定されているのでなければ、一度目に満天の星空を眺めた時点でそれを聞いていないというのは無理があるからである。

 次に、彼女が「星の鼓動」を初めて感じた際の発言に注目すると、これを

 

「初めて感じたドキドキ」

 

と表現していることからわかるように、鼓動を「ドキドキ」ということばで表現することはできたが、鼓動という単語を知らなかったとおもわれる。このことから、彼女はこの「ドキドキ体験」の後に鼓動という言葉を学び、既存の感覚と結び付けていったといえる。

 以上から「星の鼓動」の名前の由来がわかる。「星の鼓動」は本当に鼓動そのものである。戸山香澄にとって鼓動は「ドキドキ」であり、その中には「星空を見たときのドキドキ」も当然含まれるからである。しかしここに問題がある。日常生活を送っていれば、ふつう鼓動は聞こえない。どうして星空を見ると鼓動が聞こえるのだろう。

 この解決策を、私は静寂とトランス状態に求めた。まず、満天の星空を眺められるようなところは清冽な空気に囲まれ人気が少ないので、比較的音が聞こえやすい。加えて、初めて満天の星空を眺めた彼女は感動し、ひととき意識が変性してトランス状態に入ったために鼓動が聞こえたのである。これは3条件にも矛盾しない。ひとつ「星が巡り届ける音」というのはわかりにくいが、星と鼓動が関連付けられている彼女にとっては当然ともいえる内容なのだ。